(院内報から転載)

1889 年のロシアかぜ(Russian ʻFluʼ Pandemic in 1889)

 

新型コロナウイルスによるグローバルな感染爆発は、100 年前のスペインかぜ(1918-1919)以来の世界的規模のパンデミックとされています。スペインかぜは、「史上最悪のインフルエンザ 1」と評されますが、正体がインフルエンザウイルス感染であることが判明としたのは後年のことです(インフルエンザウイルス⾃体の発⾒が 1933 年 2)。アラスカの永久凍⼟に埋葬されていた遺体の肺組織等から正確なウイルスゲノム情報が得られたのは、1997 年のことでした 2, 3

スペインかぜの 30 年前、今では殆ど忘れ去られたパンデミックがありました。1889 年から 1890 年にかけて世界を襲ったロシアかぜです。⽇本では明治 22 年頃の話です(⼤⽇本帝国憲法公布の年)。世界⼈⼝ 15 億⼈の当時、100 万⼈が犠牲になったと推定されています(新型コロナでは世界⼈⼝ 70 億で現在まで死亡 400 万⼈)。ロシアかぜは、英語では Russian ʻFluʼと記されます。flu とはインフルエンザのことですが、当時の医学や⽣物学では、病原体の特定は全く無理な状況でした。後年の分析に使えるような組織材料も残っていませんでした。インフルエンザとされた根拠は、1950 年代に⾏われた⾼齢者⾎清中抗体(H2N2 インフルエンザ A)のレトロスペクティブな検討です(⾎清考古学 seroarcheology)4。しかし後に別のグループは H3 型インフルエンザ A 原因説を唱えており 5、インフルエンザ原因論は、あくまでも間接的な証拠に基づく仮説です。

 

2002-2003 年の SARS-CoV-1 (旧名 SARS)の流⾏は、パンデミックの原因として、コロナウイルスへ研究者の関⼼を向けました6, 7。現在、ヒトの⾵邪(common cold)を引き起こすコロナウイルスとして HCoV-229E、HCoV-OC43、HCoV-NL63、HCoV-HKU1 の4種類が知られており、世界に遍く分布しています 7。NL63 と HKU1 は、SARS-CoV-1 流⾏後に発⾒されました(それぞれ 2004 年と 2005 年)。229E と OC43 は 1960 年代に報告されていたものの、⻑年研究の進展はありませんでした。2005 年になって漸く HCoV-OC43 の全ゲノム配列が報告され、Bovine CoV(⽜コロナウイルス)との⾼度の類似性が確認され、変異レートに基づく分⼦時計解析(molecular clock analysis)の結果から、1890 年頃 Bovine CoV が変異して、ヒトへの感染⼒を獲得し、今⽇ HCoV-OC43 として知られるウイルスが誕⽣したことが⽰されました(他の複数の推計⽅法でも年代的にはほぼ⼀致)8。この HCoV-OC43 が新興コロナウイルス感染症としてロシアかぜの原因となったとする説が、インフルエンザ原因説と並ぶ有⼒な仮説として、今回のパンデミックを契機に、改めて注⽬されるようになりました 6, 8, 9, 10, 11。また中枢神経系合併症を伴うことが多かった点なども、ロシアかぜの原因として、インフルエンザよりむしろコロナウイルス説(OC43 ウイルスは neurotropism がある)を⽀持する根拠とされています 8SARS-CoV-1 や MERS-CoV(2012 年)のようなコロナウイルスは、世界の⼀部の地域で流⾏し⾼い致死率を⽰しましたが、短期間で忽然と姿を消しました 7。⼀⽅ HCoV-OC43 は、1889 年のパンデミックの原因だったとすると、最初の 2 年ほど世界中で⼤きな⼈的被害をもたらした後、徐々に無毒化(avirulent)し、平凡な⾵邪ウイルスとして我々と共存するという経過をとったことになります 6, 8, 10

現在の新型コロナウイルスが、今後、中⻑期的にどのように変化していくか、正確なところは誰にもわかりませんが、病原性を徐々に弱めて⾏き、第5の⾵邪コロナウイルスとして我々の⽣活環境に残っていくだろうと予測する数理疫学モデルも発表されています 11。現在我が国は、流⾏の第5波に突⼊しつつあり、⻑期的な展望を検討するのは、時期尚早の感もありますが、過去の事例が例外なく⽰しているように、終わりのないパンデミックが無いことはまず確かなことです。(2021/7/18)

 

参考文献:

  1. ルフレッド・W・クロスビー著 「史上最悪のインフルエンザ 忘れられたパンデミックみすず書房 2009 年
  2. Taubenberger, J. K. et al. Initial genetic characterization of the 1918 "Spanish" influenza virus. Science 275:1793-1796, 1997.
  3. Taubenberger, J. K. et al. 1918 Influenza: The mother of all pandemics. Emerging Infectious Diseases • www.cdc.gov/eid • Vol. 12, No. 1, January 2006.
  4. Mulder, J. et al. Pre-epidemic antibody against 1957 strain of Asiatic influenza in serum of older people living in the Netherlands. Lancet 1:810814, 1958.
  5. Dowdle, W.R. Influenza A virus recycling revisited. Bulletin of the World Health Organization: the International Journal of Public Health 77:820828, 1999.
  6. King, A. An uncommon cold. New Sci. 246:32-35, 2020.
  7. Sariol, A. et al. Lessons for COVID-19 immunity from other coronavirus infections. Immunity 53:248-263, 2020.
  8. Vijgen, L. et al. Complete genomic sequence of human coronavirus OC43: molecular clock analysis suggests a relatively recent zoonotic coronavirus transmission event. J. Virol. 79:1595-1604, 2005.
  9. Heriot, G.S. et al. Imagination and remembrance: what role should historical epidemiology play in a world bewitched by mathematical modelling of COVID-19 and other epidemics? Hist. Philos. Life Sci. 43:81, 2021.
  10. Carvalho, T. et al. The first 12 months of COVID-19: a timeline of immunological insights. Nat. Rev. Immunol. 21:245-256, 2021.
  11. Beams, A. B. et al. Will SARS-CoV-2 Become Just Another Seasonal Coronavirus? Viruses 13, 854, 2021.